dyslexiaから考えた

dyslexiaの勉強をしていると考えがたくさん出てきてまとまらなくなるので、ここにメモしています。

「できないこと」への渇望

これは、ディスクレクシアに限られないとおもうけれど、人は「自分ができないこと」をできるようになろうという思いが結構強いものだと思う。この言い方が漠然としているならば、もう少し考えていることを書くと、「親に要求されていると(明らかにorうすうすと)気づいている「能力」が、自分に足りない、とわかっている」とき、人はそれを一生かけて獲得したいと思ってしまうものなのかもしれない。人は、親からの承認を一生求めるような気がする。

実母が(この人はかなりディスレクスチック)若いころは数学はとてもできたが、英語がからきしダメで、大学進学をあきらめ、芝居を仕事にした。しかし、家庭を持ち子供ができて、芝居を辞めてしばらくしてから始めたのは、「書道」だった。字をどうしてもきれいに書きたかったらしい。ディスレクシアらしいと思うのは、書が「芸術」になると、空間把握能力があるので、また、気持ちを形に乗せるのがうまいので、かなり評価されるレベルまでいった。また、教える能力が高いので、開いた書道教室は盛況だった。が、普段の字はそれほどうまくならなかった、し、本人は「字なんて、嫌いなのに、教えるのは苦痛だ」と周りが聞くと「???」なことを繰り返し言っていた。

今、彼女は83歳。75歳くらいで字を教えるのはやめた。そのころディスレクシアを知らなかった私は「規模を小さくして少しだけでも教えたら?」と言っていたのだが、彼女がディスレクシアだとしたら(絶対そうだけど)、スパッとやめたのも合点がいく。今、「語り部」活動や「どじょうすくい」(?!)で周りから賞賛を受けている彼女。ドジョウ掬いの先生からは「もう少し若ければ…」と言われているようだ。

言いたいのは。

苦手を克服しようとして、一生を使ってしまうこともある、ということ。

もし、得意を生業、または趣味にしていれば、大きく花開くこともあったろう。

花を開くことがいいことなのかどうかわからない。字が苦手な彼女も、「芸術」や「教育」の得意分野を生かして、字の指導を行えて、それなりに成功したのだからよいのかもしれない。でも、83歳の彼女の踊りを見ると、天才だな、と思う。もったいない、と私でさえ思う。

そして、自己肯定感がひどく低い彼女。いまだに「母は勉強しない、努力しない私を呆れていただろうな」と一人でメモ書きするほどだ。

母に期待されていることをかなえられなかった自分を、いつまでも肯定できない。

ディスレクシアであるということ、それを理解して生きていくことは、そのあたりの「人との関係性」「自分の得意不得意との関係性」の折り合いをつけられるということだと思う。

ディスレクシアの人への訓練と生涯のディスレクシアとは

ディスレクシアの人は、読めるようになったとしても、一生それが残るという。

しかし、幼児期の早い段階で、特別のプログラムで、読めるようにすることが一生を左右するという。

それは、つまり、

良く読める読み手の能力を100とし、全く読めない人を0と仮定すると、「早いうちの訓練」により、50くらいまでは引き上げることができる(「軽いディスレクシア」?にできる?)でも、50から60などにはなっても、決して80は越えられない、

とかってこと?

では、訓練なしで50から60くらいのディスレクシアの人は、たとえば、訓練で63とかになるけど、やっぱり80以上にはなれないよ、ってことなんだろうか?

ディスレクシアを語るときの「ことば」の「意味」

(宇野彰:発達性読み書き障害.高次機能研究, 36-2:170-176)。

ディスレクシアについて)診断名なのか症状名(例surface dyslexia やphonological dyslexiaなど)なのか、どちらも使用する研究者、どちらで使用しているのか意識していない研究者もいるので、注意が必要。

 

と書いている。

 

自分も、ここに書くにはもう少し整理しなければならないが(私が自分のメモをブログにするのは、ここに意味がある。書くのは情報拡散ではなく、外に向かって書くという行為に自分自身がいくばくかの「責任」をプレッシャーとして感じ、なるべくあいまいさを排除しようという姿勢になる。それでコメント欄なども開けていないし、そういう割には読み取りにくい文章も書いている。失礼しております)

ディスレクシアの子」などという表記があった時、文字を音にまったく変えることができないレベルの子を指すのか悩むことがある。

Overcoming Dyslexiaでは、始めの方に「医学生のグレゴリー」がディスレクシアとして登場する。医学の勉強を始めて初めて「ディスレクシア」であることに気が付いたというものだ。

このレベルの「ディスレクシア」と、音韻認識が全くできない「ディスレクシア」ではだいぶ違う。それをOvercoming Dyslexiaでは「子供期は、読めるか読めないか」「青年期では流暢さがあるかどうか」とあるが、文字を読めない幼児とグレゴリーまでの範囲を分けるにはまだ足りないと思う。

そうして、この「流暢さ」をOvercoming Dyslexiaでは「音読の流暢さ」としているようだが(ディスレクシアの人は黙読はできるから)、今読み始めた「PLUST and SQUID」では「流暢さを獲得」すると「知識収集に努め、あらゆる情報源、から学び取る」「解読=読解ではない」「流暢さを獲得したばかりの読み手は、・・・上面にとらわれず・・・言外の意味までくみ取ることを学ぶ」とある。ここでの「流暢」は音読か否かとは別物である。たとえば、黙読でも獲得できる。

 

こんな風に、ディスレクシアを取り巻く「話」の中では、その言葉がどういう意味合いで使われているか、掴み兼ねるものがあって、

たぶんそれは、ディスレクシア研究の成果(どの段階でどれくらいのことがわかっているか、どの段階でどれくらいのことが「真実」「常識」となっているか)にも関係していることだと思うから、そのあたりにも注意を払おうと思っているが、

ちょと、混乱している。

コマッタ

読んでいない文字から意味を拾い「始める」

老眼鏡がらみで気づいたこと

今読んでいる文字列以外の文字が視界に入っていると、実はすでにその「読んでいない部分」の意味を緩やかに取り始めているようだ、ということ。これはwith dyslexiaの傾向なのか、誰でもそういうものなのかはわからないが。

 

遠近両用メガネで本を読んでいる。そこに「ハズキルーペ」(拡大鏡メガネ)をかけてみると、見える字の視界が広がった。すると大変速く読めるし、要点も素早くつかめて、理解が速くなる。

自分は、「目に入っている」でも「読んでいない」文字からも情報をとっているのだな、と思った。

ディスレクシアの人の傾向として、長文は読めるのに、短文は読めない。なぜなら「ストーリーが推測しにくいから」という説明をどこかで読んだのだが、それだけじゃないかもしれないと思った。字は読めなくても、「見る」と何となく意味が分かる、と表現する人もいるが、そういうことなのかな。そうすると、自分の子どもが弔辞を「読めない」のに「最後まで黙読すると」「全部読めるようになる」というのも合点がいく。

 

出産後の体験

ディスレクシアとは関係ないかもしれないが、2回の出産後、それぞれ違った言語に関する経験をした。

 

一人目の時は、人の名前をかなり忘れた。出産直前まで一緒に毎日朝から晩まで働いていた人の名前を思い出せなかった。短期記憶力が落ちて、電話番号も4桁まで覚えるのがやっとだった。

だんだん回復した。

 

二人目の出産後は、なぜか、難しい漢字をスルスルと思い出せるので驚いた。覚えているとも思っていない普段使わない漢字が(しかしおそらく学生時代に一度は覚えたのであろう漢字が)するっと次々出てくるので、頭の中で「難しい漢字」倉庫へのしっかり下道が一本できたかのような気がした。

半年ほど続いたかもしれない。

静かな環境が必要(自分注;全員また全てのケースではないと思う)

p140 ディスレクシアの人は文字のデコーディングに全神経を集中しなければならないので、周囲の騒音や人の動きに極めて影響を受けやすい。彼らにとって「読む」というのは脆弱なもので、そのプロセスはちょっとしたことで崩れてしまう。

 

 

 

読むのに習熟した人は、文章ないの50%から80%に目を留める

p123 読み手の目の動きを追った研究が有る。読むのに習熟した人の場合、文章内の単語の50%から80%に目を留めるという。

道を歩いていてよく知らない人に出会った時のことを考えてみよう。誰だったか思い出すまで、じっと目を離さず見つめているのではないだろうか。よく知っている人なら、ちらっと見ただけでも十分なはずだ。

 

ここに、「軽い」もしくは「知的レベルが高くてもディスレクシア」の人を見つけにくい落とし穴があるかもしれない。自分の知っている文脈や、予想しやすいものならば、丁寧に読まなくても「わかる」

息子が、「国語の入試問題を解くのがどうしても嫌だ」と言っていた。「国語」はどうしても苦手だ。と。論理的思考力もある、分析力もある、語彙も豊富、読書もたくさんしているのに、なぜそんなに嫌いなのかなぁ。ディスレクシア傾向があるとして、どういう風に国語が嫌なのだろうか、と常詰思うのだが

ここに、答えの一つがあるかもしれない。

予想できない問題が出てきた場合、対応が困難になるのかもしれない。

 

自分の英語について、

「早く、日本語のように”飛ぶように”読みたい」とこれまた常々思っている。

誰もが、多分「飛ぶように」読んでいるんだろうと思う。

そうできなくなった時、

難しい文章になった時、ディスレクシアの人はきついのだろうなぁ。そうして、私は、英語を飛ぶように読むことができるようになるのはいつのことになるだろうか?

 

棒読みができなかった息子

p123 流暢さとは、正確に、早く、淀みなく、表情豊かに読むことである。

 

息子が小2の時に教科書を朗読したカセットテープがある。朗読が学校の宿題で、それをたまたま来ていた私の母(息子の祖母)が録音したものだ。

「かさこじぞう」のそれは、情緒たっぷりに読まれていて、小さい頃からクールを気取りたがる息子とは思えない「劇場」っぷりだ。

成人した息子に聞いたら「担任の先生がそう読むから、俺もそう読んだんだよ」というので、「先生の指導が素晴らしかった(実際そういう先生だった)のだなぁ」と思った。

よく考えると、文字を拾うのが苦手な息子は、音から文章を覚えてしまい、字を見ることは、まだまだ「ヒント」なだけだったのかもしれない。

逆に、先生の「音」を離れて、字を見て自分なりに(棒)読みすることは、彼にはできなかったのかもしれない。

p 79 文脈に頼る

p 79 「ディスレクシアの人は、単語の意味を掴むために前後の文脈にちょくちょく頼らなければならない。」

 

息子 小学校1年で担任の「弔辞」を読む時、途中で読めなくなった。

10年経ってから教えてくれたこと。

「いつもは暗記していたのに、その時は弔辞を渡した先生が暗記できるほど読み上げてくれなかった」

「それで、読めなくなった時、急いで最後まで目で追って、それから読めなくなったところに戻ったら読めた」