ディスレクシアを語るときの「ことば」の「意味」
(宇野彰:発達性読み書き障害.高次機能研究, 36-2:170-176)。
(ディスレクシアについて)診断名なのか症状名(例surface dyslexia やphonological dyslexiaなど)なのか、どちらも使用する研究者、どちらで使用しているのか意識していない研究者もいるので、注意が必要。
と書いている。
自分も、ここに書くにはもう少し整理しなければならないが(私が自分のメモをブログにするのは、ここに意味がある。書くのは情報拡散ではなく、外に向かって書くという行為に自分自身がいくばくかの「責任」をプレッシャーとして感じ、なるべくあいまいさを排除しようという姿勢になる。それでコメント欄なども開けていないし、そういう割には読み取りにくい文章も書いている。失礼しております)、
「ディスレクシアの子」などという表記があった時、文字を音にまったく変えることができないレベルの子を指すのか悩むことがある。
Overcoming Dyslexiaでは、始めの方に「医学生のグレゴリー」がディスレクシアとして登場する。医学の勉強を始めて初めて「ディスレクシア」であることに気が付いたというものだ。
このレベルの「ディスレクシア」と、音韻認識が全くできない「ディスレクシア」ではだいぶ違う。それをOvercoming Dyslexiaでは「子供期は、読めるか読めないか」「青年期では流暢さがあるかどうか」とあるが、文字を読めない幼児とグレゴリーまでの範囲を分けるにはまだ足りないと思う。
そうして、この「流暢さ」をOvercoming Dyslexiaでは「音読の流暢さ」としているようだが(ディスレクシアの人は黙読はできるから)、今読み始めた「PLUST and SQUID」では「流暢さを獲得」すると「知識収集に努め、あらゆる情報源、から学び取る」「解読=読解ではない」「流暢さを獲得したばかりの読み手は、・・・上面にとらわれず・・・言外の意味までくみ取ることを学ぶ」とある。ここでの「流暢」は音読か否かとは別物である。たとえば、黙読でも獲得できる。
こんな風に、ディスレクシアを取り巻く「話」の中では、その言葉がどういう意味合いで使われているか、掴み兼ねるものがあって、
たぶんそれは、ディスレクシア研究の成果(どの段階でどれくらいのことがわかっているか、どの段階でどれくらいのことが「真実」「常識」となっているか)にも関係していることだと思うから、そのあたりにも注意を払おうと思っているが、
ちょと、混乱している。
コマッタ