教授法を学ぶ機会は、教職課程にあるのか?
ここに、様々な研究に基づいた「教授法」が示されているけれど、
こういうの、って日本の「教職課程」で学ぶのかな?
自分が社会科教師免許を取った頃は、こんなのなかった。
自分のメジャーの日本史以外は
「青年心理」とか、ほんのわずかな「教職科目」を取ればいいだけだったもんな。
これを学んで、パフォーマンスする実践の機会も持てば、だいぶ違うんじゃないかねぇ。特に学習障がいのない生徒にとっても
(Coursera 6-7 11:00あたり)
タイピングは書くより速いからディスレクシアの子に有効。でも…
違うテストを用意した(in the US)
アメリカで日本語を教えている時、
のちに「学習障がい」と診断された生徒だったが、
授業に十分ついてこれない、けれども努力している生徒に、
前回の授業を休んだから、という理由で
別の形式のテストを課した事があった。
公平性に欠くだろうか?と思ったけれども、普通のテストでは落第点しか取れないし、
変形バージョンでもギリギリ取れるか取れないかのところだろう、
だから決して公平性も欠いてはいないだろう、と思って。
今思うと、そのやり方は正しかったんだなぁ、と、ディスレクシアの生徒に対する対応(講義では全世界で取り組むべき内容、としている)を学んでいて(Coursera 6 week -2)思った。
そのテストは、ひらがなテストで、
ひらがな→ローマ字
ローマ字→ひらがな
それから、文法の知識が必要なものを一つ混ぜていたのだが、どちらか一つにしたのだった。
実効性のある方法 の 一案(絵カード)
Coursera Course のspelling of phonemeのカードを見て思いついた。
漢字や英語例文を繰り返し書くという宿題
の時
もう一つの選択肢;
その漢字や例文についてのイラストカードを作るという宿題
どちらかを選ばせる。
イラストカードは、それを使う場面の絵、でもいいし、漢字や文章を分解して何かしら記憶に残るようにアレンジした絵でもいいと思う。
うん!
語学学習のキモは続けること。だから…
学習方法のベストは続けられる工夫を入れること
続けられないのは「根性」「気力」「本気度」が足りなから、って言われて、
「嫌なことを続けられる人が、優秀な成績になる」という図式が日本にはある気がする。
だから「より良い方法を工夫する」という方向に流れない。
良い方法じゃないから苦しいのに、苦しいものを続けられると歓喜がある、と思って方法を修正しない。
それがディスレクシアをはじめとした学習障がいが見えなくなる一因にもなっているのではないか。
効果がある、と言われる方法と
続けられる、という要素(それは簡単、というより”不快ではない”ということが大切かと思う)を比べたら、
普通は前者を取るのだろうけど、実は後者の方がいいのかもしれないと思う。
まとめ
不快な気持ちを持たないように勉強することが大事。これが語学の勉強のやり方の第一番だと思う。
日本の子も文字板でアルファベットを(Coursera 5-9)
5−9 ディスレクシアの子が、アルファベットの歌を一通り歌わないと、アルファベットの順序がわからない件について。(非ディスレクシアの子はpの前と後ろは何?というと答えられる)
日本の子も、まあ、あまり辞書など引かないご時世だが、プラスチックなどでローマ字をかたどったものでアルファベットを並べるのは大事かもしれない。(粘土で作ってもいいけど)
虹型に並べて(一度に見られるように)
そのうち5つくらい抜き出して、すぐに元のところに入れるとか、そういうゲームみたいなのをするといいかもしらん。
対面式授業は、ネットの一方通行的授業とは違う。
授業とは
聴衆参加型のエンターテイメント的 戦略 だと思う。
聴衆は目の前のことに夢中になっているうちに
いつの間にか、広い土地を手に入れて、高いところに立っている。
1人でやるより、もっと広く、もっと高く。そして深く。
それが授業というものだと思う。
だから、聴衆と呼吸を合わせることも大事だし、
あらかじめ「戦略」を持っていることも大切だ。
観客を夢中にさせる要素も、所々に入れる必要がある。
それを臨機応変に変えられるのが「才能」かもしれない。