dyslexiaから考えた

dyslexiaの勉強をしていると考えがたくさん出てきてまとまらなくなるので、ここにメモしています。

頭の中の砂嵐

「THE GIFT of DYSLEXIA」には、しばしば「認知の混乱」というような表現が出てくる。それは、動揺している時に起こる、とか、興味関心の強いものに接した時に起こる、などとされ、(おそらく)自分が複数持つ「そのもの」に対しての認識のイメージを組み直す、とか、「それ」を理解するために今まで持っていた「認知のカード」を総動員する、とか、いや、総動員するより前に、今までの人生で蓄えた「認知のカードが」わーっと頭の中に押し寄せるので、混乱する…のかな。

 

私は、何か面白いものを読んだり学んだり、あと討論したり授業を受けたり、または自分で授業をしたあと、頭の中にゴーッと砂嵐が起こっているように感じることがよくある

その中には、何か「声」らしきものも混ざっているのだが、そういうのも混ざってすごい音がゴゥゴゥして聞き取れないし、当然何も考えられない。

だから、次の行動を起こしたければ、その砂嵐が収まって、砂が地面に落ちて頭の中が静かになるまでしばらく待たなければならない。そんな時の私は、ぼーっとしている。

今までは、そういう状態になるのが、自己嫌悪だった。もっと続けて学んだり話したりできればいいのに、と思っていた。ぼーっとしてしまうのは時間の無駄だし、怠け者だと思っていた。そこまで思わないにしても「物事に感じる力が強すぎて、ナイーブだから、受け止めきれないんだ。ナイーブだと損だな」と思っていた。

でも、考えると、その砂嵐の砂は、自分の中に想起されるおびただしい認識のイメージ画とイメージ音声なのかもしれない。スピードが早すぎて、砂と騒音にしか思わなかった。そして、砂嵐が収まった後というのは、思考のイメージがが、地面に落ちている状態で、それから私はゆっくりイメージがを拾い出しているのかもしれない。

このブログは、砂嵐の後落ちたイメージを拾い集めて出てきた思考を書き留める、感じかな

本を1ページ読むたびに砂嵐が起きる感じで、ほんと、困るので。

 

でも、そういう砂嵐、って、多かれ少なかれ、誰にでも起こるものなのではないのかな? 例えば、感動的な映画を見た後、席を立てない、って、そういうことじゃないかな、って思うんだけど。