デコーディングができない、という「欠点」のみにフォーカスするのはどうか?
dyslexiaの人は、音化しなくても(文字を分割して音を当てて、続けて読んで、自分の単語倉庫の中にある単語と一致させる=デコーディング)、見ただけで意味をとることができるんじゃない? と思った
ことから考えたこと、以下ランダムに。
1。そう考えると、”THE GIFT of DYSLEXIA”の記述とも一致する
2。国語の長文問題を解くときも、しっかり読まず「見て意味をとる」方法をとりがちで、「気分によって出来不出来がある」というのは、自分が無意識にやっている「意味を予想する」作業が成功するかしないか、なのではないか。
3。dyslexiaで困難を抱えている生徒に、読みを教える援助「講義」は、二つの側面を持っていると思う。一つは、見ただけで意味をとることができる、というその子の能力(あるとすればだけど)は無視しているから、その人の能力を生かした指導ではないということ。それによって、自分の脳の使い方に混乱が起きるかもしれないし、逆に今までのやり方はダメなのか、と、自信を失うかもしれない。二つめは、「読める」(ここでは意味をとる、というより文字を音声化したりすること)ことをできるようにすることによって、「人前で」恥をかかない、という自信を与えられること。一つの不足していた「能力」を伸ばしてやることで、当然全体の能力も上がるし、「見て意味がわかってしまう」能力に良い影響を及ぼすかもしれない。もしくは、「読む」ための「手段」が一つ増えることになるから、偏った能力のみで読んでいたのが、いろいろな方法を使えるようになる。
この間、テレビのあさイチやCourseraの講義を聞いていて、「欠陥がある」「欠陥を補う」という観点からのみ論じるのに、違和感がある。社会生活を営むのに困難がある人のみを対象にしているからかもしれないが。
ディスレクシア傾向の人には、多分、別の能力がある。