dyslexiaから考えた

dyslexiaの勉強をしていると考えがたくさん出てきてまとまらなくなるので、ここにメモしています。

音韻的特徴が似ている語を間違う

p 75

「その間違えた単語は政界の単語と音韻的特徴が似ていることをカッツは示した」

 

高校生の時、二人の友達の名前の「のぞみ」と「ひとみ」をよく間違えて、
友人たちが笑いながら「なんでそんなにいつも間違えるの?」と聞かれたことを思い出した。

「母音が同じだから、間違えるんだよ。のぞみはooi、ひとみはioi.....、あれ?!」

友達「違うじゃん〜!(笑」

到達度調査の設問はどうつくって

p 37

 

アメリカ

教育省が実施する全国教育進行状況調査

National Assenssment of Eduational Progress NAEP)

 

 

基準はどうやって作っているのだろう。
そういえば、日本の全国テストもだ。

 

それから、年齢にふさわしい学力の「基準」て、どうやって決めているのだろう。

「ディスレクシアとよく読める人を分ける境界線はない」p35

p35

「両者は、はっきりとした境界線ん同い、連続する分布の中の極端例として捉えるべきものなのか、それとも、それぞれ独立して存在するものなのか」『研究から得たのは・・・境界線のようなものはないという結果であった」「最近の教育支援サービスの考え方が・・・境界線があるとする見解を取っているからだ」「一定の明確な基準要件を満たしているものだけに支援を提供している。・・・この恣意的な基準要件を満たしていなくても、特別な支援を必要とし、それによって救われる子供たちは多いはずだ」

 

私がやろうとしている「ディスレクシア」とか「障害」にスポットを当てるのではなく「タイプ別勉強法」みたいなものにスポットを和えるとことで、結果的に、そういう人たちの助けにならないか、と考えている。

医者が治すのか?

p28

「この教育改革の時代にあっては、すべてのこうした子供たちに対して医学の専門家による組織的な検査を実施し、様々な障害を見定めてそれぞれにあった最善の方法を報告してもらう必要がある」byヒンシェルウッド(1904年)

 

全く正しい。

正しいが、「医学の専門家」に、引っ掛かりを感じる。

確かに、「日常生活に障害を及ぼすほど」であれば、「医学」の登場だと思う。

また、ディスレクシアが「神経伝達」系統の問題だとわかっているので、それは「医学」の分野だろう。

けれども、問題がある。

まず第一に、「医学」を持ち出されると、「医学の臨床に載せるべき事例か?」という線引きが難しくなる。生活の中で「医者に行く」というのはある程度「非常事態」である。非常事態であるかどうかを、誰が判断するのか。例えば、母親が「非常事態であるから、医者に」と言っても、担任の先生が「これは良くある事例で、非常事態ではありません。お母さんが神経質すぎる」と判断することだってあるだろう。

医学臨床に載せるかどうかの線引きのところで、様々な「苦しさ」が生まれてしまう。

それから、「医者が治すのか?」「医者が指導するのか?」の問題がある。

医者が共有している情報や治療法は、実際の生活の場と乖離していることはよくあることだ。医者はそれを「意識が遅れている」という風に両断するけれど、

本当にそうなのか?医学的解明が完璧でないにも関わらず、生活現場は医学に遅れているという認識をすることによって、医学は「反省」をしない。その情報や治療法は、それほど優れているものなのか?

それから、実際の指導は家庭や学校、本人になる。

これを「医者が統括」するのだろうか?つまり、家庭や学校は医者の手足なのか?

生活現場にいる者の方が、わかることがある。でも「専門じゃない」「科学的じゃない」などと言われる。

さらに、医学界は仲が悪い。「自分のやり方が一番だ」とやりたがる風潮が強すぎる。それが全体の向上を妨げていると思う。そして、現場に混乱をもたらす。

 

医学臨床まで乗らないレベルの人についての考察が、進んでいないと思う。

例えば、自分だ。

緊張下では、ディスレクシアの症状と言われるものが出るけれど、それは「臨床」に乗らない。そういう者の解決法も、

今は出てきているのかな?(これからのページや本に書いてあるのかな)

ディスレクシアの説明は難しい

p28

 

「原因が言葉や文字を視覚的に記憶できないところにある」

 

自分は、「ディスレクシア」そのものを研究するつもりではないけれど、この言葉を出すと、必ず説明しなくてはならなくなる。「研究をやる」と宣言して動き出したので、そういう場面が増えた。

そうして、それを理解してもらうのは、なかなか大変だということがわかった。

アメリカだと「ディスレクシア」というだけで、ある程度の「ああ」的な理解があったが、日本だと全然だ。

私のやりたいことは、その先にあるのに、ディスレクシアの説明だけで、終わる(というか終わらない)ことになる。だから、ディスレクシアの説明を端的に説明できるようにしたくて、2ヶ月前なら拾わなかったこんな言葉を拾いたくなる。

 

 

親の具体的な動き「動く」が、大切。助けを求めて待っていてはダメなことが多い。

p17

 

「障害を抱える子供がそれを克服できるかどうかの陰には、ひたむきで献身的で、自ら行動できる親の存在が不可欠である。」

「娘の運命を左右するのは私です。校長先生が娘の将来を決めてくれるまで手をこまねいてじっと待っているなんて、もうごめんです。私にはわかったのです。他人をあてにしてはならないって。」

 

 

自分の経験に照らしてもわかる。

自分の子どもにぴったりな理想的な保育園はないかと探したりしても、そんなのはなくて、今ある少しでも自分の気持ちに近い保育園を、自分たちの手でさらに充実させていくしかない。自分が動かないとダメなんだ、覚悟を決めないとダメなんだ、とわかったこと。

不登校の生徒の親には「高校進学については、中学校に窮状を訴えて、動いてもらおうと思っても、基本的にはまず無理だと思ってください。自分が動く覚悟で」と、それまでの経験から、始めにきちんと訴えた事。

そういうことを思い出した。

だから、私は、今自分のやりたいことについて、先端の研究を学ぶと同時に、

当事者の親の「生の声」を聴きたいと常々思っている。

それは、自分がアレルギーブログをやっていて、全国の「重度」「マルチ」アレルギーの親と交流する中で、感じたことでもある。

 

 

そして、親の「こうではないか?」と思う内容の「総約」は、科学的な証明をまだ得ていないだけで、医学や科学の先をいっていると思っている。

本当に解明され、解決されているのだろうか?

p11 ジョージが障害を「ビースト」と呼んだ。

「突然現れて、僕をなぶりものにするんじゃないだろうか。」

「かつてはありがちだった、こうした不安も、今ではもう不要となった。」

 

本当に?
どの程度の人が、どの程度になるのか?
まだ納得できない。