「先生。定期テストの数学失敗した!」
「ほ~か~。うーん。
あのさ、試験中に動揺したこととかなかった?体調ばっちりだった?」
「! あのー、1問?いつもはできるやつがこうなるはず、と思ったのが、できなくて、動揺して、あとの問題全部わけがわからなくなって、大失敗しました」
普段、大へん数学のできる生徒です。クラス1位でもおかしくない。
でも、実は、この生徒については、実力ではないところで大失敗するかもしれないなぁ、と少し心配もしていました・・・。
この頃、
生徒の頭の使い方・・・物事をマスターする手順やそのテンポ、そして陥りやすい失敗に、ある程度の類型化ができるような、いくつかに分類できる「傾向」があるように思っています。
その中で、この生徒は精神的動揺や体調不良がミスに繋がり、しかもそれが引き金となってかなり大量のミスを引き出す、そういうことがある生徒さんかも、と、思っていました。
だから試験前に「慢心しないで、気を引き締めて集中するんだぞー」と特に声がけをしていたりもしたのでした。
こういう「傾向分類」を考えるきっかけになったのは、
いわゆる「発達障がい」と診断されている生徒さんを教えたあとからでした。
たとえば、ある「発達障がい」「学習障がい」を持っている人には、言葉でなく図で示すと理解しやすい、とか、文字ではなく音を聞かせたほうが有効、とかいくつか既知の事実として提示される方法があります。
初めて、そういった生徒さんを教えることになった時、私はそういった方面の「教育」に素人ではあるけれど、自分なりに学んだり話を聞いたり考えたりすれば、よりベターな方法に近づくことは出来るんじゃないかなぁ、と授業をいろいろ工夫していました。
そして、その結果効果のあった方法は、別に「発達障がい」「学習障がい」と言われる生徒だけではなくても、こういった工夫をしたアプローチの方が良い影響を出す場合もあるのではないか、と思うようになり、
その後、生徒の思考方法や知識の体得方法の傾向別のアプローチを色々と考えるようになりました。
人を類型化したりして、それを固定したものとして決め付けるようなことは、人を育てる阻害になるけれど、
そうではなく、
類型化してみようという視点を持つことで、様々な傾向が有ることに気づくことができ、従来の(多くは一辺倒の)方法にとらわれず、生徒をより多角的に判断し、より良いアプローチをすることにつながるように、思っているのです。
「(身体)障がい者に優しい街は、みんなに優しい街」なんてよく言われるけれど、
人の成長の仕方を「この枠内に収まるべき」として、枠におさまらない人を排除したり、劣ると評価したりするよりも、枠も持ちつつ、それにとらわれすぎないようにして柔軟な(「発達障がい」「学習障がい」の人もOKな)視点でみていくと、
それが、ひるがえって全体に資することにもつながるんじゃないかなぁ、とこの頃思います。
これらの「障がい」を理解するのは難しく、対応もなかなか難しいのだけれど、
これらの特性についての「今のところの研究成果」を学ぶことは、人全体について深く知るきっかけになるように思います。
学べば学ぶほど、人を見る視点も変わってくるような気がしている今日この頃なのでした。
ということで、
今日も今日とて、新しい(?)「教え方」への探求は続くのだった・・・。
(うまくいってるのかなー!!(^-^;)