dyslexiaから考えた

dyslexiaの勉強をしていると考えがたくさん出てきてまとまらなくなるので、ここにメモしています。

修論では無理かもだけど、実効性のある方法論の提示が大切だということ

修士論文を書くまでに、自分が1月の段階で立てていた仮説が、「自分の本当にやりたいこと」とずれている、もしくは、修正すべき、と思うときがあるかもしれない。

 

 というか、常にその可能性を考えていなければ、行き詰まるだろう。

 

考え直すということは、再構築しなければならないということで、それはすごくしんどいのだけれども、踏ん張らなければならないだろうなぁ。

 

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それで、今、オンライン講座を受けていて思うのは、

日本の教育の中で、自分が信じることをどう実現していくかということにも言及しなければならないということだ。

今の日本の教育システムの中で、私が主張することに対して、おびただしい「疑問」(それは私の論の中身に対する本質的な疑問の他に、議論の前提となる様々なことに対しての「認識」を共有できていないがための疑問もあるだろう)や「反論」や「不可能だ」という主張があるだろう。全てに応えることはできなくても、正しい方向に向かう筋道の元、いくつかの疑問や意見に対しては実効性を伴う「論」を持たねばならないだろう。

 

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いま、思いつくのは、

まず、「ディスレクシア」を使うということについてだ。日本でこの言葉を使うとき、「学習障がい」「救ってあげなければいけない子」という風になる。確かに救わなくてはいけないのだが、そこにばかり焦点が合うと、まず「線引き」が求められるようになってくる。「特別な手当てをするために」「お金と時間がかかるから」「どの程度の子を面倒見てあげればいいの?」という発想の流れだ。

そういう線引きの問題ではないことを、しっかり示さないといけない。

 

それから、具体的な方法論だ。

誰でも簡単にできる方法をまずは示すことだ。日本は他の国ほど教師の側に柔軟性や創造性が許されていない。「一定のレベルを保つ」という名目の元、かなり統制された教え方がされる。もちろん実力を伴わない教師もいるだろう。その日本の現状を知っているからこそ教師という職場に行かなかったものもいるかもしれないし、その裏返しとして、今の日本の教育制度が教師としての自分に合っているorだからこそ「自分のような人間でもなんとかなる」と思っている教師には、変革は煩わしいものだ。
また、教職にある者の多忙さは、現状を変える時に先ずいの一番に考えなければならない。

 

だから、一気に変えるのではなく、共感する教師や教育団体が、簡単に採用できる方法を先ず示し、少しずつ成果を得ていくべきだ。

例えば、宿題ワークの種類を増やす。それのやり方についていくつかの方法を示す。過程を固定化して評価するようなこと(例えばノートに何ページも書いてきたら点数をあげるとか)はなるべく避けられればいいのだが、そこまでいくと難しいのかなぁ。

授業の中に簡単に取り入れられる、取り組みの提示。

 

もしそれが、一地域全体で行われて、成果が上がれば、全体にも広がると思うのだがなぁ。

 

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以上、Courseraの講義での単元4 実践指導法パート1の原則1、2を終えて思ったこと。