dyslexiaから考えた

dyslexiaの勉強をしていると考えがたくさん出てきてまとまらなくなるので、ここにメモしています。

第3章 

1987 学習・注意力研究センターの設立(3+1箇所)

445人への追跡調査

ディスレクシアとよく読める人とを分ける境界線のようなものはないという結果

 *私もそう思っていたけれど、この本の最初には「画像で判断できる障がい」とあったので、境界線が存在することを主張する本だと思っていた。意外。

ディスレクシアが独立した一つの障害であるという考え方に基づく特別教育施策では、一定の明確な基準要件を満たしているものだけに支援を提供している。・・・この恣意的な基準要件を満たしていなくても、特別な支援を必要とし、それによって救われる子供たちは多いはずだ。

 *全く、同感。自分の場合、この考え方で、より「障がい」に分類されない生徒(人)にアプローチしたいんだと思う。

 *本当に「基準」ができることには、功罪がある。功;その「困難」が世間一般に認識されたという証。罪;基準以外は問題なしとみなされ、もともと基準が曖昧だったということが後方に置き去りにされる。問題が解決されたとみなされ、残った問題が以前より悪い状況の中に放置される。(思い描いているのはアレルギーのこと)

 

読み書きに障害があるとみなされる生徒の「診断」の仕方は、学校や研究プロジェクトによって大きく異なる。(p38)
コネチカット縦断研究と学校で特別支援をしている生徒の数には著しい乖離がある。

 *コネチカットの方法が必ずしも正しいのか? 

 *「読み書き能力がない」ことを日本では「嘆かわしい現代っ子」という形で語られる。その原因は、IT機器やゲーム、言葉遣い、親の教育、はたまた「道徳」まで持ち出される。その原因は「主体」や「生活環境」に向けられている。私が問題にしたいのは「学習教材」と「学習方法」だ。読めない子どもを生み出している最大の原因をここに求めなくてどこに求めるのだろうか?その生徒の「思考」に沿った学習機会が与えられてしかるべきだ。

米国で読み書き困難が多い原因については、いろいろな意見がある。テレビの見過ぎだ、教室の規律がないからだ、読み方を教えるのが早すぎるからだ、いや遅すぎるからだ、働く母親が多すぎるからだ、とうとう。だが、この障害はおそらく、特定の文化的、地域的な原因によって起こるものではなく、世界中どこにでも発生すると考えるべきだろう。

 *思ったことと同じことが書いてあった。そして原因が「環境」にやらない、とする証明は「世界中で起こりうる」とすることなのか!とハッとした。

1996 サイエンティフィック・アメリカン ディスレクシアの記事に大きな反響

男女差の(男子にディスレクシアが圧倒的に多いという学校の診断結果)存在は、実はそんなにない。なぜ学校が調査するとそうなるかというと、何を持って典型的な男の子、典型的な女の子と考えるのか、というところにあるのではないかという筆者の見解。

ディスレクシアは、慢性的な症状であって、一時的な遅れを示すもの(いつかは取り返せるもの)ではないと断定(コネチカット縦断研究所の補完的な戦力を用いいた研究による)(p43)

「調査対象になった子供の三分の一は特別な支援を受けていたが、その支援がしばしば散発的で一貫性を書き、例えて言えば、血の吹き出ている傷にバンドエイドを貼るようなものが多かったことを指摘しておきたい。支援を受ける期間は短く、教師側も意欲はあっても訓練は受けていない。その指導方法も、実証済みの最新の教育戦略を反映したものではなかった(第17章参照)」(p44)

 *まさに自分がやったこと。ただ、沈んでいた子を、少し持ち上げることにはなったはずだがなぁ。